生きるよすがとしての雑記

事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。

明文化されないルールを知る必要性

f:id:altbayern123:20170627002342j:plain

世の中にはルールがあります。

 

憲法や法律のように明文化された規則だけではななく、ある社会、ある組織、ある集団にはそれぞれ暗黙のルールが存在します。政治には政治の、経済には経済の、会社には会社の、グループにはグループのルールがあるのです。

 

政治には政治のルールがあります。たとえば、くだらない政治のルールを変えようとしても、ルールを変えるためにはまずそのくだらないルールを理解する必要があります。そして、そのくだらないルールの中で戦って変えるしか方法はないのです。不毛な政治の争いを終わらせるためには不毛な政治の争いをしなくてはなりません。

 

 

グループには暗黙のルールがあります。グループというのは均質的な人間によって構成されることが大多数です。グループのルールはメンバー間の共通のイメージを形成し、排除すべき人間のイメージを形成します。あるグループの内側に入り込むにはその集団で求められている資質に合わせて自分の振舞い方を修正する必要があります。言葉遣いや表現する価値観、服装や趣味嗜好を変えるのです。グループの言動や細かな空気に目を配り、暗黙のルールを察知して、それと自分の表現している振舞いが適切かを客観的に観察する能力があってはじめて溶け込めるのです。他者を観察するだけでなく、自己を観察する能力が求められます。

 

 

金を稼ぐためには社会のルールを知らなければなりません。商法、会社法、労働関連の法律だけでなく税金や経営者に課せられる義務も守らなければつぶされてしまうでしょう。

 

世の中のルールを理解して、きちんと守りましょうと言いたいわけではありません。

世の中のルールを理解して、きちんと守ってしまう真面目とは、期待された通りに動くということであり、他人にいいように使われる危うさを持っているのです。

 

必要なのはルールを理解し、その本質を理解し、穴をつき、利用することです。所詮社会というのは搾取する側とされる側とのパワーゲームです。簡単に他人を信じてしまう”無垢”で”善良”な人間が”狡猾”で”小利口”な人間に合法的に持ち物をむしり取られる世界なのです。

 

なぜそんなことが起きるのかというと、彼らはルールのリストを知っていても、そのルールの外側にある明文化されていないルール、世の中、社会、人間というものの本質を知らないからです。

 

資本主義のルールを知らなければ知っている人間に搾取され続けるでしょう。世の中には「やってはいけないリスト」はありますが、「やってもいいことのリスト」は存在しないのです。罰則のあるルールを知り、法律の範囲の外側でいかに他人よりうまく立ち回れるかでどちら側になるかが決まるのです。

 

人生の無意味さについて

f:id:altbayern123:20170624004031j:plain

勉強は楽しいですか?

 

勉強とは突き詰めれば作業の連続です。そして、やりたくないことでもやらなければなりません。それはテストでいい点数を取るため。それはいい学校に進学するため。それはいい会社に就職するため。就職するのは働くため。

 

仕事は楽しいですか?

 

仕事とは突き詰めれば作業の連続です。そして、やりたくないことでもやらなければなりません。それは仕事の対価としての報酬を稼ぐため。それは金を稼いで食べるため。食べるのは生きるため。

 

人生は楽しいですか?

 

人生とは突き詰めれば作業の連続です。そして、やりたくないことでもやらなければなりません。だけど生きることへの対価とは何でしょうか。一体何を期待しているのでしょうか。

 

私が存在するのは何のためなのでしょう。なぜまだ生きているのでしょう。つまり、なぜ死んではいない状態を続けているのでしょう。

 

ある人は生物の目的とは自らの子孫を残すことだといいます。

そして、”自己”の特質を残し、自分という存在の生きた証を後世に残すために遺伝子という仕組みがあるのだと。

 

だけどそれは少し違います。

 

生命は”自己”の特質を残すために遺伝子という自己複製子を使用しているのではなないのです。重要性においては”自己”ではなく遺伝子が最初に来るのです。自分という存在は遺伝子を運ぶために操作されている乗り物にすぎません。人間は自由な意思をもち、自らの目的のために自分の身体を操作しているのではなく、全ては最初から遺伝子にプログラムされた通りに行動しているのです。

 

生命個体が存在するのは遺伝子を運ぶ乗り物としての役目のためです。

 

『生物とは遺伝子という名の利己的な分子を保存すべく盲目的にプログラムされた生存機会である。』

※書籍:利己的な遺伝子 著:リチャード・ドーキンス

 

リチャード・ドーキンスの言っていること全てを鵜呑みにする必要はもちろんないのすが、一度その考えに触れると生物が存在する理由がすっと腑に落ちるのです。

 

人間がそうである理由、生物がそうである理由が理解できた気がするのです。

そうすると、今こうしていることの意味、その無意味さもまた理解してしまうのです。感覚として、実感してしまうのです。

 

生命というものは、どんな犠牲を払ってもこれを伸ばしたいというほどまでに愛著せられるべきものでもないでしょう。

 

生活は意味を持ちません。

 

しかし、そのことは生活に意味を与えられないということではないのです。

自分がただの自然現象に支配された法則的なものだとしても。その人生の無意味さに気付いてしまったとしても。自ら目的を作り出し、無意味さの上に立って意味を与えることはできるのです。無意味を意味で覆い隠せばいいのです。

 

人間は自らゼンマイを巻く機械であったほうが幸せなのです。

 

だけど、こんな文章を最後まで読んでしまう方はもう手遅れであることもまた事実なのです。。。

 

童のときは
語ることも童のごとく
思うことも童のごとく
論ずることも童のごとくなりしが
人となりては童のことを捨てたり

哲学とは

哲学とは何でしょうか。

 

現実の問題に対する答えでしょうか。

人生の役に立つ学問でしょうか。

それとも、難解な言葉を使って一般人を煙に巻く道具でしょうか。

 

人間はある時から自我を持ち、疑問を持ちます。

 

ある瞬間、ふと、気づくのです。今まで自分の目から見えるもの、自分が感じるもの、自分が聞くものがこの世界の全てだったのに、自分の外側に知らない世界があると。

 

個の中の自分からではなく、全体の中にある1個体としての自分の存在を感じ取り、自分を俯瞰して認識したとき、はじめて人間的な問いを持つのです。

 

私が生まれたこの世界はどうなっているのか?そもそもなぜ生まれたのか?人間とは何か?善とは?悪とは?なぜこんなことをしなくてはいけないのか?この世界のルールは誰が作ったのか?分からない。分からないけど従うしかない。

 

だけど・・・なぜ?

 

人間以外の動物はこんな疑問は持ちません。

低次の動物は精神的能力の限界のために単一の刺激特徴によって行動が引き起こされています。考えて動くのではなく反応して動いているのです。生物というよりは機械的な物理現象です。

 

しかし人間もまた同じ動物です。

ホモ・サピエンスは霊長類に属する一つの種であり、その他全ての動物と同じように、生物学の法則に支配され、同じ物理の法則に支配されています。

人間性とは動物性のなかの一つであって、それ以外のなにものでもありません。

確かに人間は他の動物とは違った特異な動物です。しかし、ほかの動物も、それぞれの独自性という点においては特異なのです。

 

こんなこと当たり前かもしれません。だけど、当たり前のことこそ一番大事なことなのです。真に考えることをせず、盲目的になっていると当たり前のことさえ見失ってしまいます。それだけでなく、間違っていることさえも当たり前になってしまい、当たり前であるがゆえにあえて疑うこともしなくなるのです。

 

では、全てのことに疑問を持ち、とことん突き詰めて考えれば答えが出るかと言われれば、そんなことはないでしょう。哲学はそのような答えのない問題を扱います。

 

哲学とは既成の問題に対する答えではありません。

誰も気づかなかった領域に問題があることを発見し、その神髄を共有することが重要なことなのです。その哲学上の問題を本当の意味で理解できたのなら、それを批判することも乗り越えることも不可能になります。もしそれができたというのなら、そもそも問題を理解していません。

 

自然科学とは違って収束する結論はないかもしれません。永遠に解決されことはなく、どれだけ時間を費やしても終わることがない無間地獄かもしれません。しかし、哲学する人間とはそうしようと心に決意して始めるのではなく、どうしようもなくそうせざるをえなくなったがためにそうするのです。