生きるよすがとしての雑記

事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。

人生の無意味さについて

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勉強は楽しいですか?

 

勉強とは突き詰めれば作業の連続です。そして、やりたくないことでもやらなければなりません。それはテストでいい点数を取るため。それはいい学校に進学するため。それはいい会社に就職するため。就職するのは働くため。

 

仕事は楽しいですか?

 

仕事とは突き詰めれば作業の連続です。そして、やりたくないことでもやらなければなりません。それは仕事の対価としての報酬を稼ぐため。それは金を稼いで食べるため。食べるのは生きるため。

 

人生は楽しいですか?

 

人生とは突き詰めれば作業の連続です。そして、やりたくないことでもやらなければなりません。だけど生きることへの対価とは何でしょうか。一体何を期待しているのでしょうか。

 

私が存在するのは何のためなのでしょう。なぜまだ生きているのでしょう。つまり、なぜ死んではいない状態を続けているのでしょう。

 

ある人は生物の目的とは自らの子孫を残すことだといいます。

そして、”自己”の特質を残し、自分という存在の生きた証を後世に残すために遺伝子という仕組みがあるのだと。

 

だけどそれは少し違います。

 

生命は”自己”の特質を残すために遺伝子という自己複製子を使用しているのではなないのです。重要性においては”自己”ではなく遺伝子が最初に来るのです。自分という存在は遺伝子を運ぶために操作されている乗り物にすぎません。人間は自由な意思をもち、自らの目的のために自分の身体を操作しているのではなく、全ては最初から遺伝子にプログラムされた通りに行動しているのです。

 

生命個体が存在するのは遺伝子を運ぶ乗り物としての役目のためです。

 

『生物とは遺伝子という名の利己的な分子を保存すべく盲目的にプログラムされた生存機会である。』

※書籍:利己的な遺伝子 著:リチャード・ドーキンス

 

リチャード・ドーキンスの言っていること全てを鵜呑みにする必要はもちろんないのすが、一度その考えに触れると生物が存在する理由がすっと腑に落ちるのです。

 

人間がそうである理由、生物がそうである理由が理解できた気がするのです。

そうすると、今こうしていることの意味、その無意味さもまた理解してしまうのです。感覚として、実感してしまうのです。

 

生命というものは、どんな犠牲を払ってもこれを伸ばしたいというほどまでに愛著せられるべきものでもないでしょう。

 

生活は意味を持ちません。

 

しかし、そのことは生活に意味を与えられないということではないのです。

自分がただの自然現象に支配された法則的なものだとしても。その人生の無意味さに気付いてしまったとしても。自ら目的を作り出し、無意味さの上に立って意味を与えることはできるのです。無意味を意味で覆い隠せばいいのです。

 

人間は自らゼンマイを巻く機械であったほうが幸せなのです。

 

だけど、こんな文章を最後まで読んでしまう方はもう手遅れであることもまた事実なのです。。。

 

童のときは
語ることも童のごとく
思うことも童のごとく
論ずることも童のごとくなりしが
人となりては童のことを捨てたり